御理解日時不明
 
テープ途中から始まる
信心辛抱さしてもらう、昨日のご理解じゃないけれども、おかげは和賀心だ、和賀心だと、ね。「おかげのあるも無きも和賀心なり」昨日の御理解でしたね、昨日の御教でした、おかげのあるも無きも和賀心なり、だから結局、和賀心の確認を先ずしなければならない、皆は確認してない、有る様な無い様な程度である。
 だから自分の心と言う物の、おかげは和賀心にある、と仰るのだからその自分の心を確認しとるならば、是ではお陰を受けられんはずだ、是ではおかげにならんはずだ、と云う物を自分の心の上に、それを感じ取らしてもろうて改まって行く、磨いて行くとと言う事にならなきゃならん。
 そう云う生き方と同時に、ままよと云う様な心を出さなければです、十分に受け様と思えばままよと云う心を出さねばおかげは受けられん、ままよとは死んでもままよの事だと、死ぬとか生きると言うだけの事ではなくてです、そのお伺いをして、例えばなら古賀さんの所の霊祭、よし親先生がもう昼からを霊祭を使えると仰るから、もうドシャ降りになってです、傘さしてしなきゃならん様な事があっても、もうままよといわば腹を据えた訳です。
 そこから云うなら先取りする様なおかげを頂けておる、そんなら一日延ばしてあくる日しましょうかと言ったら、明くる日は本当にその時間がドシャ降りであったと言う事、そう云う言うならばはっきりした、神様が下さるおかげと云う物は間違いのないおかげをです、頂止めて行くと言う、そこん所の信心がそう云う生き方がですね、積り積って行っておる内に自分の物になって来ると言う訳です。
 お祭りが済んで、昨日お迎えも今日のみつゆき君がやってくれました、帰りもみつゆき君の車で帰らしてもらいました、よっぽど渡辺先生の車が、どーせここさん帰って来ますから、あちらの車で帰ろうかと思いましたけれども、いやいややっぱりみつゆき君が、今日はおかげを頂こうと、弾ずーだじゃから彼の車で帰らして頂くのが本当だと思ったから、彼の車を選ばしてもらった。
 所が車の中で色々とその、最近彼なりに色々悩みを持っている訳です、昨夜のお祭りが兎に角、なんとはなしにですその、有難かった訳です、私に仕切に話掛けるのです、運転しながら、私が横に乗ってる訳です、丁度筑後川の横を、堤防を通る時でしたけら、親先生此処で大変おかげを頂きましたち言う。
 どうしたつのと言うた所が、親先生お迎えに行かんならんからと思うて筑後川に車を洗いに行ったちゅう。下の方に下らんならん訳ですね、あそこは、所がトラックが一台あったもんですから避けて通りょったらその、軟かい所にメリコンでからあがらんごとなった。そこでそのトラックに言うたからそんなら引き上げちゃろと言うたからトラック迄一緒にメリコンでしまった。
 もう間髪を入れずでしたその、ブルトーザーがやって来た、それからブルトーザーがですねその二台を引き上げてくれて何の用に来たじゃろうかと思う位に、ちゃっと帰ってしもうたと言うとですよ。先生こげな事が信心の仲間に言うならば、そりゃ偶然てい、えらいふが良かったのち言うとこでしょうばってん。
 僕は昨日、本当におかげちゅ思うた、今日親先生の話しを聞きよったら、一分一厘間違いの無い話しと言う事を仰ったが、今日頂いた僕のおかげが一分一厘間違い無いおかげと云う訳なんですよ。
 「そうばい、一次が万事にそう云うおかげが受けられる、今日は心が神様に向こうとる、親先生をお迎えに行かんならん、心が神様に向こうとるそう云う時にです、そう云うなら一分一厘間違いのない働きがあるとじゃからです、何時もなら神様の心にその、自分の心が向いておけばと」云う様な意味の話しをずーと話して来ました。
 もうだいたい物を言わん、何か知らん私の側には寄り付うごとなかちゅう感じにしとりますけれども、昨日は仕切りにそう話すんですね、実は僕は今悪い事をしょる、だからそげなふうじゃやっぱり一分一厘間違いのない働きを受けられんとじゃろーとこう云う訳です。
 いんやーあんたは悪い事と思うとるか知れんけども、神様の眼からご覧になりゃー悪い事じゃないかも解らん、そう云う所が信心の勉強せんと解らんばい。
 自分な悪い事しょる、悪い事しょると思うて、おかげの受けられない言うなら心の状態になってしまう所が信心を頂かしてもろうて、道理を解らしてもろうて、神様のお心を解らしてもらうと、この神様はこんなこーまい人間が悪かことと思うとる様な事を、悪か事なさる様な神様じゃないち。
 だからそこん所が自分の心を開かなければ解らん所じゃから、そげな事はしかし一編じゃ教える訳にはいけないと言う様な事を話して居る内に此処に着きました。
 ですから私共がです、その一分一厘間違いのない働きを受けると言う事の為にはです、たえず何時も自分の心と云う物を、どう言う問題であろうともその問題を通して、心を神様に向けておかなければいけないと云う事、十分なおかげを頂こうと思えば、自分の心が何者かに捉われておる。
 そこには是が本当な事だ、是が本当な事ではないのだと言う、見境も付かん様になる、捉われておってはならん、言うならばね、我情我欲に捉われておると云う事が、神様のおかげの阻害、邪魔になる、我情我欲を離れる、其処からです我が身は神徳の中に生かされてある、言うなら十分な徳が受けられる、言うならばおかげの受け物が水も漏らさん、と言う様なおかげの受け物が段々出来てくる。
 又我情我欲と言うと大変難しゅうなりますけれども、実を言うたら我情我欲を取る程素晴らしい事は無い、こんな楽な事はないとです、例えばなら昨日秋山さんが、言っとられる様にもう今度の宅祭りばっかりゃ本当に楽でしたと云う事です。是は我情を取っとるからです、我欲と云うんじゃない我情とりあげもせんならんこげんもと言う、その思いと云う物を取っておるから、楽な楽なおかげを受けられると云う事は、そう云う心の上に神様が十分に働き、良うあんなさる言うならば、場が出来るのです。
 神様に十分に働いてもらわなきゃーいけん、それを自分の我情で自分が働いておる所に、おかげの云わば世界を狭ま―く、自分の心の用に狭いものにしてしまう、皆さん日々信心の稽古をさして頂いて、まあー断片的ではあるけれども、例えば古賀さんの例を取りますとです、只地鎮祭なら、地鎮祭と云う事に付いてではありましたけれどもです、ままよと言う心に成る所に、十分の神様が下さろうとしておるおかげを、十分に受け止める事が出来た、その事に限っては。
 だから一次が万事にその心にならせて頂いたら、良いのだと云う所に其処には我情我欲を挟んではならないと云う事にならし、又は地鎮祭をする、お祭りを仕えると言うその、神様に心を向けておると言うその、心が働いておると云う事ね。
 おかげの受け物を、おかげが受け物が悪ければおかげが漏るぞと、仰った。おかげが落ちるぞと言う風に仰っておられない、おかげが頂かれんと仰っておられない、おかげが漏るぞと仰っる。漏ると云う事は、私はね、水も漏らさんと言う事だと思うんです、漏ると云う事はおかげと云う物は、云うなら水の様な物なんです。
だからちょこっと隙間があればもうそこから漏ってしまう、大きななら入れた途端にもう抜けてしまう、云うならば底が無かったりして御覧なさいどんなにしとったっちゃー、全然そこに溜りもしません。
云ううなら水も漏らさんおかげを頂かして頂く事の、精進を愈々さしてもろうて、愈々自分の心の確認をさしてもろうて、自分のおかげの受けられる心の状態と云う物を、愈々作って行くと云う事と同時に精進しなければならないと言う事。
同時に、事神様にお願いした以上はです、右になろうが左になろうが、その結果を決めてはならないと云う事、いわゆるままよと言う心にならなければならない、ままよと云う事はもうどっちになっても文句は言いません、いわゆる死んでもままよと言う事ぞと、おおせられる程しの事であります。
まあーあらゆる角度から言ううならばおかげの受け物と云う物を検討して、おかげを受け止めさして頂いて、おかげを頂、言うなら続けて行けれるおかげを受けたいと思いますね。
どうぞ。